視界の外の隣人は

北京に来ている、とある友人の経歴がドラマのようだった。

高校生の時にちょこっとやんちゃをして少年院送りのち退学し、ホストで軍資金を貯めて地元で仲間と会社を興し、今は別の人に経営させて自分は北京に来ている。書けない事もあるので全部は書けないが、まぁ連ドラの主人公だと思ってもらえれば。

最近、生き方を多様化させよという声に呼応して、大学休学して起業してみたり、海外で就職してみたり、卒業後もゆるりとバックパッカーする人がなんとなく注目される傾向にある(自分もそうだけど)。でも、この種のクローズアップは、もしかして偏差値アッパー層(というあまり意味のない尺度)の狭い世界の中のみでやっている、井の中の蛙なんじゃないかと思う。

今はそうでもないかもしれないけど、一昔前「僕、起業します」なんていうと、なんだかものすごくおおごとのように聞こえた。一世一代を賭けた大勝負。勝てば億万長者、負ければ借金地獄。そんなリスク背負わないで安定を選びなさいよ、ホラ、ホリエモンみたいになるのが関の山だよ。という感じだ。

でも、その前提はなんだか初めから失うものが相当あるかのような聞こえ方だ。というか「おおごとのように聞こえた。」というのもそれは僕の所属しているコミュニティの中にいる僕が聞こえたというだけで、既にそこにはバイアスがある。崖っぷちに追い込まれて、背水の陣でそのエネルギーを前向きに全力で向けている人にとっては、おおごととか言ってる場合ではないかもしれない。

若者は海外へ行け起業しろなんて発破をかけられてもオドオドしている”エリート”達を尻目に、言われなくても冷や汗かいてやっている人なんてたくさんいるんじゃないだろうか。だとしたら、発破をかけてる人は、彼らを全力でサポートする方が社会に有益なんじゃなかろうか。


いつもいるコミュニティから離れて暮らしてみると、たくさん発見があっていい。トランプのカードをシャッフルして出てくる数字のように、日本にいたら普通会えなそうな人と仲良くなれたりして、最高。