慎泰俊さんの「働きながら、社会を変える」を読んで

慎泰俊さんについては以前もブログに書いたことがある通り、個人的に非常に尊敬している方で、日本にいた時には、Economistを読む会で毎週お世話になっていました。少し前に出版された著書の「働きながら、社会を変える」を読んでの感想を書きます。

働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む

働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む

(この本で登場するLiving In Peaceのメンバー、Iさんが北京にいらっしゃった時本を持って来てくださり読むことが出来ました。お忙しい中わざわざ小童二人の相手もして頂いて、有難うございます。)

きっかけ

日本における「子どもの貧困」について、多分ハッと本当に意識したのは、上述のEconomistを読む会にてです。その週あったイギリスの若者デモのトピックでディスカッションをしている時に、ファシリテーターの方から「日本の若者の間でも、このようなことは起こると思うか?」と振られ(唯一の大学生参加者だった)、何も考えずに自分の周りの学生を思い浮かべながら、「経済の先行きが暗いとはいえ、まだ起こりえないと思いますし、その気配もありません。」などと呑気に答えた。その次に答えたのが、自身のNPOの活動を通して機会の不平等の是正に取り組む、慎さんだった。あまりクローズアップされることない「子どもの貧困」について、この本に描かれる実体験を挙げながら、僕と正反対のことを答えた。信念を持って毎日を一心に生きている人の隣に座っている僕は、何を言ったんだろう。とても恥ずかしかった。

自分のこれまでの人生ともかけ離れていたこのトピックは、その後も僕の中で「他人ごと」のフォルダにしまわれ、この本を読む時に改めて取り出された。でも「他人ごと」のラベルは、少し違ったかもしれない。

自身を肯定するとは、他人に肯定されること

「幸いなことに日本は平和なので、努力すれば何とかなる」と昔ブログに書いた気がする。でも「努力すれば」の前提条件はごく自然に享受されていることが多いと思うので、あえて考えるためには、何かのきっかけが必要かもしれない。金銭的に安定しているとか、愛情に恵まれてるとか、健康だとか、心が充実しているかとか。このうち、心が充実していることが、一番大切な気がする。読みながら昔の自分を、ちょっと振り返ってみた。<<ただ、ここでどうしても伝えたい事がある。子供たちの心の傷は、普通に生活をしている人々にとって、理解不可能なものではない、ということだ。人間、だれでも心のどこかに他人に触れられたくない傷を隠し持っているのではないだろうか。誰にも言えないような悲しい思いを胸に抱いている人は少なくないだろう。p.87>>

本で描かれている子供たちの経験とは、もちろん度合いに大きな差があるけど、確かに僕にもこういうことはある。僕の場合は転校がそれの1つにあたると思う。父親の仕事の関係で、幼稚園から小学校の間に何回か転校をした。だから「地元」の感覚はどこにも無いし、何年も知っている昔からの友達というのも本当に少ない。

せっかく友達が出来たと思ったら、また次の場所で1から作らないといけない。今みたいにFacebookも無かったので、引越ししたら最後、もう連絡を取ることはない。毎回突然来た「よそ者」として孤立からスタートするクラスでは、グループの機嫌を異常に伺いながら、荒波を立てないように針の海を歩く綱渡りをして、なんとなくその一員になっていく。ようやく心を通わせ始めたと思ったら、学年が変わってクラスが変わったり、また転校したりする。

ガラスのハートの持ち主だったので、小学1年生の真ん中で転校したときは、不登校になりそうだった。暗い暗い教室の中一人、知らない多数の視線を浴びるのが怖く耐えられなくて、行きたくないと泣いて訴えた。登校時に母親が小さな弟をベビーカーに乗せて、途中まで付いてきてくれた。その後しばらくして近所の友達が出来て、彼らと一緒に登校していた時も、ふと後ろを振り向いたら、母親が同じように、こっそり付いてきてくれていた。友達に茶化されるのが嫌で、「帰れよ!」とか言ってしまった気がするが、すごく心が満たされたのを覚えている。

それから、比較的真面目だった小学生とは逆に、中学から反抗期を迎え、高校生活ではすっかり廃人のようになってしまった後も、妙な方向に行こうとも家庭は暖かったし、二回目の大学受験を決めた時も、特に反対しないで見守ってくれていた。<<自力で逆境を乗り越えてきたと考えている人は、自身の自己肯定感とそれに基づく「努力できる才能」について、誤解していることがあるかもしれない。苦労して何かを成し遂げた人は、その背景にある不断の努力を自らの精神力の賜物と考えることが多い。でも、それは正しくはない。努力できる強い心は、自分自身の気質や自己決定だけでなく、自分以外の誰かとともに過ごす日々によって育まれるものだ。多くの場合は親がそれを育む。場合によっては、コミュニティだったり、学校の先生だったりする。p.82>>

僕も間違いなく、親やここには書き切れないほど沢山の周りの人の支えでここまでやって来れている。自分に驕るとふと見えなくなってしまう時があるけれど、それは切っても切れないものだ。

でも逆に、これが何も無かったら自分はどうなっていただろうか。

僕はたまたまラッキーで寄りかかるものが沢山あっただけで、誰にも支えられず、それどころか攻撃的あるいは無関心でいられたとしたら、絶対に耐えられなかったと思う。心は荒み切って、ちょっとでも嫌われそうになると、人を拒絶して、暗い暗い心の中に閉じこもってしまっていたと思う。心が弱かった僕は、誰かが居てくれたって、そうなりそうだったんだから。

だから、これは全く「他人ごと」じゃないと思った。ほんの少しだけ運命が違った、隣の席に座っていた彼や彼女の話だ。僕は僕の道の上で、この話に目を向けようと思う。

初めて、最後までやり抜くこと

慎さんに紹介していただいた本や映画は全部見た。映画「ガンジー」や書籍「人生生涯小僧のこころ」では、強烈な信念を持った一個人が、一般的には到底考えられないような困難に、地味に地味に打ち勝っていくまでの、軽めのサクセスストーリーでは省かれてしまう一瞬一瞬が詳細に描かれている。

慎さんも、世界で最もタフな職業の1つで働きながらNPOをやって、加えて勉強会をいくつも掛け持ちしたり、200キロのマラソンをコツコツ準備してついに本番やり遂げてしまたったりと、もうすぐ仙人になってしまうかのような精神力の持ち主だけど、多分心の中には、こういった人々の姿が刻まれているんだと思う。

どんな経験が原体験になって彼を動かしているのか、僕には到底想像つかないけれど、言葉と行動で示す姿に、僕はいつも勇気をもらっています。


素晴らしい本なので、是非手にとって読んでみてください。