上海雑感

試験も終わり、留学のプログラムはひと通り終了した。少し早めの夏休みは、留学中に時間が無くて殆ど行かなかったアジアをプラプラしてから日本に帰るつもり。帰国日は6月28日です。

その一発目で上海、杭州、南京、黄山を1週間で行ってきた。上海では上海人の友達が車を出して案内してくれたのだけど、とてもいい所だった。一気に上海が好きになった。

上海

上海は人口2200万人(東京は1300万人)、市内GDPは21兆円(東京89兆円、ニューヨーク50兆円、シンガポールは17兆円)。欧米が中国を始めて完敗させたアヘン戦争終結後の南京条約で開港してから、外国資本流入して発展した。1920年から1930年は東京を凌ぐ大都市。多くの国がこの時流入していたため、市内にはエリアに別れてプチフランスやプチロシアのような場所がいくつもあって、美しい景観をもたらす。

中国は発展している発展していると言われつつ、フローのGDP成長が高いだけなので、東京を知っている人はがっかりする人が多いけど(深センとか、、)上海は外国人が来ても驚くレベルのいわゆる国際都市でした。広い土地に贅沢にビルや遊ぶ所をバンバン立てて、繁華街は人で溢れかえる。

上海単体GDPシンガポールを超えている。市政府と国家政府の違いはあるものの、朱鎔基がやった地方分権のお陰で上海は独自に発展政策を考えて成功することができた。一党独裁シンガポールにカントリーリスク(建国の父リークアンユーの死後)があることを考えると、外交や人材の層の厚さなど強力な国家のバックアップがある上海は強いだろう。ちなみに中国の金融センターとしてよく香港と上海は比較されるが、上海は国内、香港が国際マーケットとして住み分け特化されている。

差異

この中国の省ごとの特異さは今回の旅行ではっきりと肌で認識した。上海人の友達は内陸の中国人をよく田舎者呼ばわりするので、お前ら同じ中国の同胞なんじゃないのか、、と感じたこともあったが、実際かなり差がある。上海のミドルハイクラスは完全に先進国であるのと比較して、内陸から上海凱旋に来ている人たちはMTRに乗ったこともなく、列を平気でスキップするなど横暴な態度を取る人も多く、平気で街中で排泄をしていた人も見てしまった。。省ごとに税収も教育レベルも違うため、必然的にこういう差がでてきてしまう(中国人の友人の言葉)。日本の中では意識することは無いが、「公の役割」をまじまじと見せつけられた。傍から見れば中国は1つだが、マンダリン(普通語)というあとから作った共通言語と民族性で無理やり縛り付けた擬似的な一体感を見ました。

翻って、いわゆる「日本の均一的な社会性」が事実存在し、それが特殊であることを認識しました。僕はこの日本型村社会のマイナス面ばかりに注目しがちなので(息苦しいと感じる)、元来この言葉が好きではないのだが、どうやら隣の芝生が青いだけで、しかもよく見てみると自分の芝生が一番綺麗に整っているみたい。

例えば、震災後の日本人の規律を守った行動は世界中から賞賛された。もちろん一定数がこれに反する行動を取ったであろうことは否定しないが、震災の同情を買おうとしても、こんな無理があるプロパガンダが作れるだろうか。記者に能動的にそういった記事を書かせるだけの現実が、それなりの数あったと思っていいと思う。

国内に社会的不均衡やリスクがある国民からすると、「どこに行っても街は綺麗だし、人は優しくて平和だし、飯は美味いし、日本最高だよ」ということになる意味がようやくわかった。GDPでは測れない優位性が日本にはある。この意味をわからず、シンガポールや香港はすごいとか、移民政策とか社会保障を手放しで言いっぱなすことはとても無責任であることに気づき自分を恥じた。人間の暮らしは、数字とロジックだけでは語れない。

日本が中国から学ぶこと

ということで自分の国のことまで考えるきっかけをくれた上海旅行だったのだけれども、同時に日本が中国から学ぶこともたくさんある。例えば、現世の世界経済の仕組みに対応した経済の回し方だ。僕は、この社会的安定を保ちながら達成できると思う。

基本的に、ほとんどの先進国は経済の加速に政治がまったく追いついていない先進国病であるというのが持論です。そう思うのは、人のインセンティブ(経済)と人がどこで「他人」の線引きをするか(政治)という2つに矛盾があるから。政治は国民の意思の鏡。

例えば、僕は日本で生まれて日本語で物を考える純日本人だけど、外国語も喋れるし仕事を選ばなければ世界のどこだって働ける。(経済的動機)でも結局は持っているパスポートは日本国と書いてあるし、家族は日本に永住するだろうし、そうすると政府の失策のツケは僕らが払うことになるだろう。感情的な愛国心は別に無いが、自分の手を離れた範疇から制約があり、線引きをここでしている。ここに政経の矛盾がどうしても生まれ、グローバル化でそれは大きくなり、財政危機や政治機能不全という形で噴出している。

数百年後には国家という概念もなくなるかも知れないけど、その過度期の世界に生きている以上、個人のナショナリティが日本人であることから逃れられないし、別に逃れる必要もない。ただその集合体の統治機構は競争に晒されている以上、フレキシブルに変えなければ、安定を保っている社会もじわじわ失われてしまう。

能動的に打って出れば、社会を壊すこと無く優位な立場は取れると思う。入れ替えたりするのではなく付け足せば良いだけ。
長くなったので、これについてはまた気が向いたら書きます。